2022年 07月 04日
三鷹北口の狭い居酒屋カウンターに石川球太 宮谷一彦と高校3年生の私は座っていた まだ陽が残る秋の夕暮れ時 サラリーマンの帰宅には少し間がある時間帯 カウンターだけの古びた焼鳥屋には私たち3人だけだった 1972年当時 アポイントメントなんて観念はない この日も電話などせずフラッと石川プロを訪ねる宮谷先生のお供をしたのだ マンションの5階 ノックもせずにドアを開ける 部屋の奥 窓際の机で石川球太と担当編集者らしき男がこちらを向いた アシスタントのいない仕事部屋は広々としているが その空間には重い空気が垂れ込めている 多分最終打ち合わせ→明日午後からアシスタント召集→作画開始→週明け16枚渡しというようなタイミングだったのだろう 我々客人が現れたのを区切りとするように 「それではこれで失礼します!来週〇〇は××ですのでよろしくお願いします!!!」 そさくさと鞄に何やら詰めこんで担当氏は出て行った ドア付近の我々に会釈した顔には緊張感が滲んでいる 戦力外の高校生にも判る これは〆切前の黄信号だ 「いいんですか?お邪魔しちゃったみたいで・・・また出直します」宮谷一彦が呟く 「何いってんだよ せっかく来たのに 俺は外に出るきっかけが欲しくてうずうずしてたんだ ちょっと行こう!」 石川球太は握っていた鉛筆を放り投げ いつもの人懐っこい笑顔でジージャンを羽織りながらマンションの外廊下をドンドン進む そして焼鳥屋のカウンターだ 球太さんが手慣れた調子で注文していく 店と同じく年季の入った店主が無言で応える 「僕は いつもここでピーマンの塩焼きとレバーのサッと焼きを食べてるからね 家族は僕の健康の心配をしなくて良いんだよ ワッハッハッ!」と笑う 石川球太にアーネスト・ヘミングウェイのイメージが重なる 「生肉には全ての栄養素がある だからレバーはサッと焼きなんだ! ウンと焼きでは栄養が壊れるんだよ」 さすがは動物漫画の巨匠だなァとか思いながら高校生は生焼けレバーを齧った その10年ほど後のTVで 冒険家の植村直己が犬ぞりで極寒地を横断する際の食料としてカリブーの生肉を大量に準備しているのを観た 一片300gくらいの冷凍肉を麻袋にポンポンと放り込んでいる 体温で解凍しながらナイフで削ぎ落とし 鯨の脂に絡めて食べるという 携帯する食料のほとんどがその生肉で 1日1キロ食べるとのこと 「生肉には全ての栄養素がある」球太さんの言葉を思い出した 飲み屋のカウンターは石川球太の独壇場だ 宮谷先生は笑いながら応えている その当時 宮谷一彦が作家・編集者と話をする場に何度か居合わせたことがあるが こんなに柔和で受身なのは石川球太の時だけだった 何をいわれてもとても楽しそうにしているのだ 「タニヤンの絵が入ると画面が締まりますねぇ」 「そうだろう! タニヤンのお兄さんもイラストレーターなんだよ」 石川プロアシスタントのタニヤン_ 後の漫画家 谷口ジローのことを褒め合っている たわいもないやり取りが続き 話題は少し前に少年マガジンに掲載されたちばてつやの『螢三七子』に移った 「あれは 読んだかね どうだった?」と石川球太 「勿論 読みましたよ だけど・・・」 「だけど どうした?」 「何か ちょっと違うんですよ」と宮谷一彦 私は『螢三七子』を思い出していた テーマも分かるしクライマックスのイメージも良いんだけど何か物足りない印象があった だから宮谷先生の言葉は理解できた 『ちかいの魔球』『ユキの太陽』『紫電改のタカ』『ハリスの旋風』『あしたのジョー 』 自分が大好きなちばてつやとはちょっと違う 何となくちば漫画の類型を見るような思いがしていたのだ 私は『螢三七子』を頭の中で反芻するのにいっぱいで その後の二人のやりとりは聞きそびれていた すると突然 石川球太が業を煮やしたように 「あの作品には君の足りないものがあるんだよ!」と強い口調で言い放った 「ちばてつやと君の漫画は真逆だ!ちばてつやはネームを見せる 君は絵を読ませているんだ!!!」 絵 を 読 ま せ る その言葉は私の心に刺さった 「それが宮谷一彦じゃないですか! 」と思ったが飲み込んだ 高校生ごときの出る幕ではない でも宮谷作品に惹かれる理由 これから自分がやりたいと思っているものが言葉として現れた気がした そして「ネームを見せる」という表現こそ漫画の命のようにも感じた その緊張した場がどう終わったかは覚えていない いつだって帰り際は球太さんの満面の笑顔と はにかむような宮谷先生の思い出しかないのだ 帰り道 玉川上水沿いを歩きながら聞いてみた 「先生 なんで球太さんの前ではあんなに遠慮してるんですか?」 ずっと気になっていたことで怖かったけど聞いてみたのだ 少し間を置き 照れ笑いを見せながら 「あの人は俺のアニキに似ているんだよ あの人といるとアニキといるような気分になるんだ」 ニ、にアクセントを置く独特の言い回しでそう答えてくれた 宮谷先生は早くにお父さんを亡くされていて お母さんと年の離れたお兄さんに育てられたというのを思い出した 「球太さんには敵わないよなぁ 」 そう言って微笑むのだ_ ************************************* 1972年の秋口 17才で夢と不安がたえず交差していた頃の記憶 今となっては宝のような思い出です 宮谷一彦と石川球太 10代の多感な時期に漫画界の両巨星と関われたことを奇跡のように思います この頃の経験で得た喜びや痛みがその後の私を造りました 大きな感謝の気持ちと共に抱えきれない負債も感じています 私の残りの時間はその返済の為の時間なのでしょう またいつか 三鷹北口の焼き鳥屋のような処でお二人に会って 少しばかりは自分の話もできるように仕事をしていきたいと思います 宮谷先生 球太さん お疲れさまでした そして本当にありがとうございました 2022年7月4日 ひろき真冬 写真は先輩アシスタントで漫画家/下條よしあき氏より借用 宮谷一彦先生と初めて会った新宿2丁目の漫画喫茶「コボタン」 注) 石川球太 https://ja.wikipedia.org/wiki/石川球太 『螢三七子』ちばてつや「週刊少年マガジン」1972年9月3日号掲載 https://mangapedia.com/蛍三七子-bxfe21r6o
by hirokimafuyu
| 2022-07-04 19:53
| Essay
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